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祥雲を踏みしめて下界に降らしめたまえ
開元の儀が終わると師は、財神に三度頭を垂れて、大声で「謹んで申す、大聖開金口」と三度叫ぶ。すると財神は祭壇から降り、演技し始め、関係の祝詞を唱える。財神が退場すると魁神、天官と引き続き登場し退場する。正式上演に先き立ってのこの次第は「三出首」と言われ、毎年正月本主祭の上演時は必らず行わなければならない民俗儀礼である。三神の祝詞は次のようなものである。
射神<詩>
昔日峨嵋の山に修行せし折
二十四気の移り行きとともに
黒虎にまたがり雲霧の中
天空へ駆け上り
金権を振り上げて風雷雪にまみゆ
<セリフ>
吾は即ち鎮乙黒炭玄壇趙公大元神なり。昨日白鶴童子が伝え来たり。本日雲南省雲龍県長新郷大達村にて、村中守護のため老いも若きも神に感謝の祭りを催すなりと。いずれもが善男善女ばかり、善き所いたる所に満ち、悪しき所は一点たりともみえず。下部達は心誠にして黙して祈り、祝いの香の煙はなびき、天界の宮殿の心を動かす。吾神のみことのりを奉り、世俗の塵を振り払い、雲の上に降り立って一望すれば、この地は幸せ満ち、すこぶる太平なり。一に慶賀、二に財宝の門に登らせん。老いたる者の寿福増長し、著き者の平安無事を祈り、農民の五穀豊穣、役人の出世、商工業者の金銀財宝の蓄財を祈る。祝福し終えたなり。若し魑魅魎魍の輩この地を掻き乱すならば吾金鞭を一振りして、追い出してやろう(鞭を手にとって四方を打ち叩き厄払いする所作)。鎮圧し終えぬ。祭壇を有する者は祭壇に帰依し、廟有る者は廟に帰依し、祭壇無き者廟無き者はそれぞれ頼るべきもの何も無し。汝等信ぜざるを恐れて、ここに詩をもって誰となさん。
<詩>
吾は即ち趙公明なり
神に封じられしは第七番目なり
金銀満ちたる倉を開け
満杯に積み重ねられし金銀を分ち与えぬ
詩は既に献上され、吾天界の宮殿に立ちもどるのを待ちて、玉旨を奉納し、黒虎にまたがり動きぬ。[その他の魁星、天官の祝詞は省略]雲龍ペイ族の吹腔戯のこのような習俗は、追儺劇と一致していなくもないといえる。実際この点はよく理解でき、我々がペイ族吹腔戯の起源及び発展の歴史を考察しさえすれば明らかにすることができる。専門家の考証によればペイ族吹腔戯の起源は江西の弋陽腔により、展開の過程でペイ族の他の民族芸能(田家楽の如き)と融合して形成された。弋陽腔がペイ族の地に移入伝播されたのは明代の雲南へ入殖した開墾のための国境警備の駐屯兵の漢族の軍隊であり、当時明朝の軍隊には「軍追儀」が存在しており、その当時移入された弋陽腔は一種の軍道儺ではないかと疑われている。

本主の祭祈行事

本主の祭祀行事はペイ族の本主崇拝の中で重要なものであり、祭祀は集団儀礼と個人儀礼の二種に分けられる。雲龍県ペイ族においては特別の場合を除き、一年に二回の本主の行事があり、一つは新春正月であり、もう一つは本主の誕生日である。新春正月各村は本主廟に行って、本主、娘々等兄弟姉妹神像と観音等天神地神等を村回りをさせて年を越す。この行事を「仏迎え」と称す。本主の誕生日の時には本主廟に行って祭祀を行わせ俗にこれを本主の縁日という。
長新大達村の仏迎えは正月一日の朝、この日村中総出できれいに掃除をし、各家では門前に香炉を置き、村の各道路の入り口で香柏(訳註−ひのき科の常縁樹の一つ)の枝を山のように横み重ねてそれを焼く。仏迎えの一行の前面には趙、岳、馬、温の四大元師に扮した者が馬にまたがって一行を先導して厄払いをする。本主が回村を終えてからは村の中の舞台に面した仏棚の中に奉り置く。併せて正月一日から五日まで田家楽を演じ、田家楽が各家の門に至ると悪疫払いをして、祝福を行い、四季の平安無事を祈り、各家から祝福が終ってから米や肉あるいは金銭などが持ち出されて謝

 

 

 

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